なめろうのひとりごと

日々のことを細々と綴るブログ

ひとりごと:友人ほど無責任で最高な存在はいない

 

毎日を生きていて、ときどき親しい友人というものはやや不思議な存在だなと感じる時がある。

 

どんな部分が不思議なんだろう?

 

一言で表すと、「心は通じているけど無責任」という部分。

 

自分が悩みを抱えていたり辛いことがあったとき、家族や恋人には言いづらいなと思うことも多いだろう。けど、親しい友人になら言える。話を聞いて!と縋れる。

そんな心の開示や通じ合いは友人のすごく素敵なところだと常々思っているんだけど、同時に

 

結局他人だから無責任

 

ということが脳裏によぎってしまう。

僕は以前悩みを抱えていた時、それに絶望したことがある。

 

 

どんなに悩みや辛いことを共有できて心を通わせられたとしても、結局は自分じゃない。

同じ痛みは目の前の相手にはきっと分からないし、なにより背負ってくれるなんてこともない。

 

それはなぜか?

前述した通りだ。「自分」じゃないからだ。

 

そういった部分が、僕の中で友人という存在への絶望感へと繋がってしまった。もちろんそれで大切な友人を嫌悪したり敬遠したりすることはないけど、ね。

 

 

 

でも、いつの間にかそんなことは心から消えていったな。悩みやモヤモヤが以前よりかなり少なくなったからなのかな?

 

 

今はこう思ってる。

 

同じ「無責任」という括りであっても、友人なら気兼ねなく話せる。気兼ねなく相談できる。

それが逆の立場であっても、気兼ねなく話を聞いてやれるし、必要ならアドバイスだってできる。

 

友人は自分の人生を背負うわけじゃない。自分は友人の人生を背負うわけじゃない。なぜなら、他人だから。

でもそれが逆に心の枷を外してくれる。

無責任だからこそ、家族には言えないことを言える。無責任だからこそ、家族には言ってもらえない言葉を伝えてあげられる。

 

家族はたいていの場合本人のことを心配するから、安定とか現状維持な判断を望むことが多いと思う。

でも友人の言葉って、無責任なぶん前に進むためのトリガーにもなり得るんだよね、経験上。

 

最高だ。「無責任」って悪い意味で使われることが多いけど、考え方によっちゃ最高な言葉じゃないか。

 

 

だから僕は悩みを抱える友人に、せめて前に向かえるための言葉をかけてあげたい。

なぜなら、無責任な他人だから。親しい他人にこそ紡げる言葉があるし、伝えられる想いがあるから。

 

反対にもし僕が行き詰まった場合は、無責任でもいいから前に向かえるための言葉をかけてほしい。次へ進めるように。未来へ歩めるように。

 

 

これからもよろしく。

 

 

大切な友人たちへ。

 

では。