なめろうのひとりごと

日々のことを細々と綴るブログ

「宙ぶらりん」を理解した

 

 

まずケツから言っておくべきことがあります。

今年度、大学を休学することにしました。

 

「転部試験を受けて転部したい」というのが主な理由だけど、詳しいことは私と会った時にでも聞いてください。今日はこのための記事じゃないんで。

 

 

さて、休学するということは「学校に行かない」ということなのは自明のことだ。

そして学生である身分の人間から「学校に行く」という単純なタスクを抜き去ると、何ができると思う?

 

答えは簡単。ニート」「フリーター」である。

 

学校の長期休暇中の大学生はそれにかなり近い存在だと思う。実際私も「休学したら春休みが延長される感覚なのかしらね」なんて思ったりしていた。

しかし今こうやって生活していると、感覚的にかなり違った。ひしひしと感じてしまった。

 

ああ、宙ぶらりんな生活ってこういうことか。と。

 

本を読んだり勉強をしてはいるけど、毎日「何もない日」を過ごしバイトをして生きている、というのはかなり不思議な感覚を得る。

社会の一部になれていないって表現が一番近いかもしれない。

 

すごく漠然とした世界の中にいるのを感じる。生活の主軸になるものが無くて、文字通り「宙ぶらりん」。

今までフリーターに対する「宙ぶらりんな生活」って言葉にピンときてなかったんだけど、意外と的を射た表現だった。

 

人は、学生なら学校を主軸に生きるし社会人なら仕事を主軸に生きている。その他の時間で、バイトなり勉強なり投資なり遊ぶなりしている。

いずれの場合もそれは社会的グループの中にいるということで、尚且つある程度そのグループから「勉強」「仕事」など何かを強いられている。だから、多少は何も考えていなくても最低限主軸を失うことはない。

 

一方で宙ぶらりんな人間は、学校だ会社だという社会的グループに属しておらず、誰かに何かを強いられることがない

何も考えていなかったら、学位を得ることもなければ仕事も存在せず餓死するだけになるだろう。

 

そこそこ壮絶な世界だと思う。

私は実家暮らしだから食べ物に困ることもないし生活のために働く必要もないけど、そのどちらも(またはどちらか、でも)ないフリーターの人はよく食いつないでいけてるなあと感じてしまう。自分には無理だ。

 

社会的グループに属さない以上、一層気を引き締めて生きていかないと。

 

親の扶養内というかなり甘えられる環境でなおかつたくさんの時間をもらっている状態って贅沢だよね。

 

インプット的な意味も絡めて、いろんな人といろんな話がしたいので、ご飯誘ってください。

(矛盾させたくないから遅くても終電で帰るぜ)

 

半年後の転部試験。無駄にできる日は、ない。

応援よろしく。

 

 

 

春の夜に何を思った

今日の昼間はまじで夏だった。春は死んだみたいだ。

しかし夜になると春は息を吹き返す。穏やかで気持ちの良い風が抜けていく。

 

そうだ、散歩でもしてみるか。

 

なんて思った私は、去年の夏に買ったお気に入りのバカ高いサンダルを履いて外に出てみることにした。このサンダル履くと気分が上がります。高いので。

 

普段外を出歩く時にはイヤホンを欠かさず持っていて音楽を聴いているんだけど、今日は持ってない。何もせずぷらぷら歩くのも悪くない。

周りがなんだかよく見えるし、発見が多い。

まあ発見といっても「あの車の日よけ、セリアで見たな…」くらいのもんだけど。

 

耳にイヤホンを挿すと、外界と自分が遮断される。比喩ではなく、実際に心を閉ざす。

だから歩いている時は前も横も関係なく、ただ「行き先とそこへの道」という概念しか存在しない。

まあそれもそれで悪くないけどね。

 

セイムスピノを買って食べた。

 

 

 

最近ランニングを始めた。始めたと言っても気張ってするようなものでもなく、週に数回。

健康維持とか実はコンプレックスのお尻を小さくしたいとかってあるけど、個人的に一番の理由は、未来に向かって走るために他ならないと思ってる。

 

高校時代は楽しかっただの、中学生からやり直したいだの、過去に目を向けて生きるのは本当にどうしようもない気持ちになるだけで、時間がもったいないよなあと思って。

だから、私は未来へ目を向けるためにひとつ悪い習慣を潰し、新しい習慣をつけることにした。

それに一番適しているのがランニングだなあ、と。ちなみに「悪い習慣」は○ナニーです。シコティッシュフォールド。

 

走るのはわりと悪くないよ。汗をかいて帰ってすぐ風呂に入ったらいつもよりも気持ちが良いし、寝付きも良いし。

 

だから私は走ります。未来へ向かって走る。

 

 

 

散歩の話のつもりが、気付いたらランニング始めてオナニー(もはや伏せ字もしない)やめたことの話になってしまった。それに今日走ってないしな。

まあいいです。

 

最後に、先週友人と久しぶりにバンドで曲を合わせて遊んだ帰り道に、ふと寂しくなった気持ちをクソポエムとして綴ってみたので見てやってください。べつに文学的でもなんでもないです。痛いやつと思われても仕方ない。

行き場のない言葉を供養させてくれ。

 

帰るときは、ひとりです。
どんなに笑っても、どんなに馬鹿しても、帰るときは、みんなひとり。
散り散りになって帰ってゆく。
寂しさを孕んだ夜の空気が、少しだけ私に寄り添ってくれるような気がした。
明日のことを考える。
また会えるだろう。そして帰るだろう。
世界はひとりだけじゃない。けど、ここはひとりの世界。

 

 

では。

 

お客様の中に心の震える音楽はいらっしゃいませんか

 

気付いたらギター始めて5年経ってた。正直下手すぎて5年って言いたくないどうもなめろうです。

 

近頃、いろんなバンドの曲を聴き漁ってます。

クリスチャンミュージックとやらを聴いてみたらジーザスジーザス言ってました。ゴスペルに近いのかなと思ったらそのバンドのサウンド凄くノリが良くてファンキーな感じ。意外性。

 

さて、そんな感じでわさわさと聴いてるわけだけど、

 

心が震える音楽に出会えなくなったなぁ…

 

なんて思うようになってしまった。

歳でしょうか。

 

一般的に人って好みの音楽は青春時代に決まるそうで、青春時代に好きになった音楽は人生を通してずっと好きなままで、大人になると新しい音楽を聴かなくなってくるらしい。

 

今のバンドシーンを見て「ロックは死んだ」とか言っちゃうおじさんとかがいい例だよね。

違う世代のおじさんたちによって何回ロックは殺されるのか。輪廻かよ。死んだのはあんたらの世代のロックスターのほうです。(寿命的な意味で)

 

まあ、それはそれとして。

 

ざっくりと言えば、

それって昔の感動が今のそれを上回ることが無くなった今の音楽を受容しづらくなってきているってことで、

それってつまり心の震える音楽に出会えなくなったってことで、

それってつまり当てはめると…

 

ワシやないかい。

 

早くもおじさんへの一歩を踏み出してしまったのだろうか。。

バンド単位ではまだ「これだ!」というものには出会えてないけど、最近になってシューゲイザーの良さにズブズブと嵌っていってるからセーフ。だよね。

 

これからも新しい音楽には定期的に触れていかなきゃなあ。

 

Led Zeppelinを聴かないとダメダメ〜‼️そんなんでギター弾いてるの❓❔

とか言っちゃう限界おじさんにはなりたくない。Twitter覗くとマジでいるから怖い。

 

 

最後に、私が心を震わせたバンドの曲を紹介させてもらおう。

目を通すだけでも。よければ聴いてみてください。

 

ギターを始めるきっかけはこの曲でした。

 

the pillows、世界でいちばん好きなバンド。いつ聴いても涙が出る。

 

泥臭い音楽の美しさ。最高にかっこいい。

 

Helsinki Lambda Clubは3年前にライブで観て一目惚れ。今でも大好き。

 

cinema staffの奇跡はほんと全てにおいて完成度が高い。以前は敬遠してたけど、この曲からcinema staff大好き人間と化した。

 

自分の好きになった音楽の軌跡を辿るのって面白いね。どいつもこいつも音楽性がバラバラすぎる。

 

これを読んでいるあなたも、こうやって振り返ってみると自分のルーツを辿るような気持ちになれて良いですよ。

 

あなたが心を震わせた音楽はなんですか?

 

なにか、人に聴かせたい!って感じたものがあったら是非コメント等で私にオススメしてください。聴く。私の心を震えさせてくれ。

 

ここのところ1000字以上書けるようになってきたのでいい感じだなあ。やっぱ春休みに引きこもりキメたのはよくなかった。

 

今日はこの辺で。

では。

「ファインダー越し」の発見をしよう

 

私が友達と遊んだり彼女とデートをしに出かけた帰り道、いつもいつも「うわあ今日写真撮ってないな」と心のどこかで思っていることに気がついた。

 

私はほんとうに写真を撮らない。

街の風景も、面白いことも、友達との自撮りでさえ。

 

写真が嫌いなわけではない。むしろ好き。古いアナログの一眼レフを買うくらいには。

でも、なんとなく「写真を撮ろう」という思考に至らない。その場が楽しければそれで良くて、その様子を画に残す、という動作をついつい忘れてしまう。

 

それってなんだかもったいないなあ、と。

 

インスタやTwitterなど、SNSを少し覗くとハッシュタグに「ファインダー越しの私の世界」なんてついた写真がごろごろと見つかる。

 

私は正直今まで「そんなタグつけてSNSに写真載せるのって痛い」って思う節があった。

しかし彼らが載せる写真には必ず彼らなりの「小さな発見」があって、それに各々が価値を見出して1枚の写真にしている。

 

きれい、かわいい、面白い、不思議。

そんな「小さな発見」を見つけるって意外と難しいことだと思う。それこそカメラを持って出かけない限り。

 

「小さな発見」を積み重ねていくことにさほど意味はないのかもしれない。だけど、それこそ小さい彩りが自分の中に灯るし、その彩りが豊かさの証にもなる…気がする。少なくとも精神的には幸福度が高まる。

 

今は写真を撮る、という面でしか小さな発見について考えられないから分かりやすい「景色」とかにしか適用できないけど、こういうのって訓練していったらもっと幅広く小さな発見をできるようになるんじゃないだろうか。

人の表情から心情を察する、みたいな。全く根拠は無いのでべつに期待してはいないけど。

 

 

さて。

「小さな発見」は「彩り」で、それは「豊かさ」ひいては「幸せ」につながってゆく。

 

小さな発見は、小さな幸せ。

 

それを見つけるために明日からカメラを持って出かけてみます。

 

近いうちに、あなたにファインダー越しの私の世界を見せてあげよう。

 

では。

パルコとくだらない青春

 

私の地元には、かつてパルコがあった。

そう、パルコ。ショッピングモールの。

 

それが2年くらい前に閉店して今まで、当然のことながらそのパルコには一度も行っていない。

しかし今でも私の中に、ときどきパルコの記憶が波のように押し寄せてくる。

 

せっかくだから、パルコの記憶を綴ろう。

 

 

2階にはスタバと高校の頃気に入っていた洋服屋。

生まれて初めてスタバに行ったのはここで、高校1年の冬だった。当時仲の良かった友人に「ベンティおすすめ!」なんて唆されてオーダーしたフラペチーノ、デカかったなあ。あれは飽きた。トールでじゅうぶんです。

 

3階、広くGUのフロア。

何回もここで服を買った。まじでGUは高校生の聖地。(もうGUで買い物することは無いけど)

あそこの店員さんに凄く笑顔が素敵な人がいた。今でも接客をする上で、心の中の師匠。

 

少し飛んで…7階。

高校1年の春に初めてのギターを買ったのはここの楽器屋。それと、待ち合わせの時とか遊んでて時間が余ったときは用もないのに7階まで昇ってきてギターとかバンドスコアを眺めてた。「あっ、〇〇のバンドスコアある!」みたいな。しょうもねえなまじで。

 

8階には足しげく通ったヴィレッジヴァンガードと大好きなオムライス屋さんがあった。

ヴィレヴァンに行く度にUFOキャッチャーで動物のパノラマフィギュアを獲る挑戦をした。オムライス屋さんには彼女と2人でよく行ったし、中学の友人とは2人でオムライス食べた上に1個ずつハニートースト食べて満腹で吐きそうになった思い出が。

またあそこのオムライスを食べたいよ。

 

最後に、屋上。

高校3年の時、ここに彼女とライブを見に行った。滅多に登れない屋上は新鮮で、少し寒かった。

ここでたまたま観たバンドに一目惚れしたのは後にも先にもこの1回だけ。今でも大好きなバンド。

そしてその日の帰り道、私は生まれて初めてのキスをしました。

 

 

 

こうやってひとつひとつ思い出してみると、パルコには高校時代の思い出が嫌という程詰まっていることに気づく。それも「生まれて初めて」がすごく多い。

 

高校時代の思い出というのは、それと同時に青春時代の思い出で、かけがえのないものだったりする。

 

「なにもないけどね」なんて笑いながら、何度も何度も遊びに行ったパルコ。

駅から遠かったけどそんなことは気にならなかった。

 

きっと私はパルコが大好きだったんだろう。なんだかんだ。

そしてそれは今も変わらない。今でも「パルコに行きたい」と思う日がある。

 

あそこにはなにひとつ珍しいものなんてなかったけど、なにひとつ失っていいものはなかった。

 

こんなことでノスタルジーに浸って、深夜に涙を流す私は馬鹿でしょうか。いいでしょ。寂しいんです。

 

パルコは青春の一部で、私は時々その幻影を見てしまう。追いかけてしまう。

外された看板を付け直して、建物を囲う工事のバリケードを外して、賑やかな玄関口で私を迎えてほしい。

 

また行きたいなあ。

 

これからも、そんなことをぼんやりと考えながらこの街を生きていくのだろう。

 

 

私のパルコへの熱烈な愛の文章でした。

 

 

あなたには、記憶の中で今も霞むことのない記憶はありますか?

たまにはコーヒーでも飲みながら思い出に浸るのも良いと思います。

 

 

素敵な思い出をありがとう、パルコ。

今日はこの辺で。では。

こころをことばに

 

自分が嬉しかったり悲しかったりといった心の中の気持ちを、上手く文章にすることができない。

 

自分がどういう気持ちなのか?という問いがあったとしても、「悲しい」「嬉しい」「ムカつく」「幸せ」なんていう単語でしか表せない。それがなんだか悔しい。

 

人の気持ちというのはもっともっと繊細な動きがあって、きちんと言語化すればそれなりに長く、わかりやすく伝えられるはずだし。

でも、その手段を持たない私は「なんとなく」のざっくりとした語彙でしか表現できない。

 

 

そんなときに村上春樹の文章を読んだら、すごく文章がきらきらして見えた。

 

例えば「ノルウェイの森」からこんなシーンを。

 

それから彼女は僕の方を向き、にっこりと笑い、少し首をかしげ、話しかけ、僕の目をのぞきこむ。

まるで澄んだ泉の底をちらりとよぎる小さな魚の影を探し求めるみたいに。

 

これは「直子」というヒロインが動く情景描写でしかないけれど、それでもこんなに凝った比喩表現は、少なくとも今の自分には書けない。

 

そんな一対の美しい瞳が長いあいだ僕の中をのぞきこんでいた。

それから彼女は背のびをして僕の頬にそっと頬をつけた。

それは一瞬胸がつまってしまうくらいあたたかくて素敵な仕草だった。

 

読んでいるだけでドキッとするような、的確かつ美しい表現。

 

 

ここまで的確なものでなくていいけど、心の中を美しい言葉にできる人がうらやましい。

 

 

比喩表現ってすごく難しいんだろうなと思うけど、私もこうやって言語化していけたらなあ、と思う。

 

こころをことばに。

 

今日はこの辺で。では。

 

手遅れな神経質

 

バイト先の休憩室にいる時のこと。

お昼ごはんを買い、スマホをボーッと見つめながら食べ、さて食べ終わったぞと片付けてから、

 

「テーブル汚くね?」

 

と気付いた。

そういえばと思って自分の鞄の中を漁ると、ウェットティッシュが1枚。拭こう。

 

汚れも落ち、除菌され綺麗になったテーブルを見てご満悦。

汚れてるテーブルなんか触りたくないもんね。ましてや、突っ伏して寝るだなんて尚更。

 

と、ここでふたつの事実に気付く。

 

ひとつめは、私は神経質だということ。

 

ふたつめは、それが手遅れだということ

 

 

本当に神経質なのであれば、食事の前には必ず手を洗い、テーブルに汚れがあるのなら食事を始める前に気付くし、そもそも汚れなんて無かったとしてもウェットティッシュで除菌するはずだ。

しかし一方で私は、汚れたテーブルに気付かず食事をとり、その後で除菌を行った。

 

完全に手遅れである。

 

他にも思い当たることがある。

家に居て「ご飯だ」となったときは、気付いたら「食べた後」に手を洗っている。食べものの油とかがついた手でスマホやゲームを触りたくないからね。

 

 

いや、まず食う前に洗えよ。

 

 

外出先では食べる前に手を洗うけど、家の中だとなんとなく汚れていない気がするんだよね。

 

そのことを親に話したら、昔からそうだったらしい。幼少期に病気をもらいがちだったのは間違いなくそのせいだ。

 

 

だから、私は手遅れな神経質なのである。

多分だけど、これからも変わらないような気がする。少しは意識してみようと思うけども。