なめろうのひとりごと

日々のことを細々と綴るブログ

煙草を吸う人間は皆「やめとけ」とか言いながらメッチャ吸う

 

うまくいかないことが連続して訪れるような人生の中でも、ぼくは「今この瞬間」を楽しむことができてしまう人間だなと思います。

 

それをいつの日だったか「こんな状況なのに」と後ろ指をさされたことがあったけど、ぼくの中ではそれはそれ、これはこれなんだから。って思ってしまいます。

 

きっと自分はどれだけ落ち込んでも友人とはワイワイできるし、仮にうつになったとて楽しいことはやめられないんだろうな。なんないけど。

 

 

今日は地元の友人と一日中スポッチャでバカ騒ぎしてきました。初めて行ったけど、はっきりいってスポッチャは神の遊戯だと思う。超楽しかった。

 

@ぼくと仲良くしてくれる各位、ぼくが免許をとったらドライブで行きたいなあと思ったので、一緒に柏のアリオに行きましょう。

あ、ドライブで連れてってくれるのも随時募集してます。ぜひぜひ。

 

 

うまいもんをたらふく食べたあとに友達にもらった煙草の味。なかなか悪くないなと思ってしまった。

この感覚をうまく言語化できないなあと思ったら、友人が「ほっこりする」って表現してて笑った。

 

ちょこちょこと友人から煙草をひと吸い貰ってむせかえってたばかりだったのが遂に慣れてきて、これはまずいぞ〜と思いつつ「ほっこりする」感覚を忘れられない。そんな夜です。

 

 

今度会った時に俺がライター持ってたら、察せ。

 

 

文章書くのはやっぱり楽しい。

 

おやすみなさい。

 

思いやりを持って

 

いたたまれない気持ちでどうにもこうにも動けなくなってしまったので、冬までブログは書かないという誓いを破って書いています。

 

 

人間関係って、何を要素に構築されているでしょうか?

 

ぼくは思いやりだと思ってます。

 

反対に言えば、思いやり無しに人間関係は構築できないとも。

思いやりのない人には人との関わりは難しいです。

 

周りに気を配れる人は思いやりに溢れているなあと感じます。それは(意識無意識は関係なしに)周りの人が気持ちよくこの場を楽しめるように、って身体が動くから。

周りを思いやってるでしょ?

 

 

ありがとう、ごめんね、おはよう、またね、おつかれ、

あと、大好き。

こういう小さな言葉の積み重ねも思いやりがなければできないです。

 

 

じゃあ、思いやりがなくなったらどうなるのか?

 

答えは簡単。

 

信頼を失います。

 

人と人との繋がりや信頼関係って、すごく脆いガラスの球体みたいなもんだと思います。

それを大切に大切に、思いやりを持って接してあげれば球体が割れることは(ほぼ)無いし、反対に思いやりの無い、ぞんざいな扱いをしてしまったら簡単に割れてしまう。

 

信頼は誰が思っているよりも簡単に砕け散るでしょう。きっとぼくが思っているよりも簡単に。

そしてそれを取り返すのはあまりに難しい。人はプラスの出来事よりもマイナスの出来事のほうを強く記憶するようにできてるらしいです。

 

思いやりは人と人を繋ぐ架け橋で、思いやりはイコール信頼です。

 

 

あなたの隣にいる人、あなたの目の前にいる人、それが単数か複数かは置いておいて。

 

その人に思いやりを持てていますか?

ぞんざいな扱いをしてはいないですか?

自分本位じゃない、相手の立場でものを考えられていますか?

 

 

相手が自分のせいで傷ついたとき、「その程度のことで」と思ってしまうことは特別変わったことじゃないと思います。

でも相手は実際に傷ついた。あなたの「その程度」が相手のどの程度なのか?をつねに考えないといけないと思います。

 

それも思いやりです。

 

 

いつ何時も、忘れないでほしい。

 

 

 

 

まとまらないなあ。でも久しぶりなわりにはサクサクと書けたような。

 

空虚な夜に書いています。深夜2時。

 

お風呂へ参る。

ではでは。

水風呂日記

 

"それ"は、なんの前触れもなくやってきた。

 

 

 

「あー、お風呂気持ちいい」

 

何気ない風呂のひととき。湯船には入浴剤を混ぜた温かいお湯と、1日の疲れをほぐすためにそこへ飛び込んだ青年がひとり。

 

ぼくの風呂の入り方は人とは少し違っているのかもしれない。

ぼくの場合、風呂に入るとまずは身体を洗う。そして湯船にドボン。温まりながら顔のマッサージをして老廃物を流す。最後に顔と頭だ。

「男のくせに顔のマッサージ?美意識高いね笑」そう思う人はいるだろう。

ぼくもそう思う。でも、これやると毛穴すっきりして肌荒れしないんだぜ。

 

話が逸れた。

今日の風呂もその「いつも」と例外なく、身体を洗い湯船の中でマッサージを済ませ、これから顔と頭を洗うところだった。

 

そう、「だった」。

 

 

「あれ?」

 

 

異変に気づくぼく。なんだろうこの違和感。

…違和感の正体はすぐに現れる。

 

 

風呂釜の火が、いつの間にか消えている。なぜだ?

 

 

言い知れぬ不安を抱えながら、再度火を付ける。

 

付かない。

付ける。

付かない。

付ける。

付かない。

付ける。

付かない。

 

………

 

 

(小説っぽく書くパートおしまい)

 

 

風呂釜が壊れた☆〜(ゝ。∂)

 

 

誠に不本意だが、入浴剤の混じったお湯で頭を濡らし、あとは水で顔と頭を洗った。不快すぎるし、いくらこの季節でも水は寒くて体にこたえる。水風呂なんて久しぶりだよ…水に浸かったわけじゃないけどさあ。。

 

一言でいうと「しんどい」。

 

唯一の救いは夏ということだろう。冬だったら遺体で発見されていてもおかしくなかった…。

 

 

 

ぼくの中で、家電やガスコンロなどの寿命は10年という感覚がある。

そこで、この風呂釜はいつ買い換えたんだっけな?と思ったら、ちょうど10年前だった。例に漏れない家財道具の鑑ですね。

 

 

 

いいことがあるとそのあとほぼ確実に悪いことってあるよね。

 

ここでは詳細は省くけど、昨日は嬉しいことが2つもあった。

対して今日のツイてない出来事はこれを含めて3つ。

 

 

神さま、錬金術師の法則知ってる??等価交換って知ってる?????

 

 

そんな感じで、残念な気持ちで終わる8月9日でした。

 

やってらんね〜。

 

ポジティブだけど。落ち込んじゃいないけど!

ひとりごと:誇りと後悔が同時にやってくる

 

きのう、高校のころに加入していた軽音の後輩と話した。

彼にはぼくの時代には無かった苦悩があって、時は進むもんだなーって感じながら、自分の高校時代を思い出していた。

 

 

 

高校3年の頃、ぼくは軽音の同好会の部長をやっていた。

ぼくは軽音が大好きで周りのみんなが大好きで、「尽力」という言葉がよく当てはまるほどさまざまなことを考え行動し進んでいっていた…と思う。

 

 

文化祭ライブが近づいたある日、同好会のみんなを集めて「文化祭ライブをみんなの力で成功させよう!」と語った時にみんなが気持ち良く「はい!」と口を揃えて返事してくれた瞬間の感動はきっと忘れられない。

べつにそんな良い返事を期待して言ったわけじゃなかったから、自分の言葉が届いた気がして嬉しかった。

 

やらなきゃいけないことが多くてしんどくなった時もあったけど支えてくれる人もいたし、結果的に全体を良い方向に運営できたのはぼくの中では小さな誇りだ。

 

 

思えば、2年の秋だったか?に初めて自分が部長になることを発表されて、初めてみんなの前で喋ったとき。全然言葉が出てこなくてモジモジしちゃって、先輩に「そんなんだからダメなんだよ!」とキツーい言葉をもらってしまったんだよね。

正直まじめに凹んだけど、あの日以来人の前に立って喋るときは虚勢でも堂々と話すよう心がけているし、胸を張れるようになった。

あの言葉は、結果的にぼくを良い方向に導いてくれたと思う。感謝。

 

 

一方で後悔もある。

それは、もっとみんなを頼るべきだった…ってこと。

 

ぼくは気付いたらひとりでアレコレやっちゃうタイプなんだ、ということをわりと最近になってようやく知った。そしてその傾向は部長としての仕事のときに顕著に出ていたと思う。

 

ああ、もっとみんなを頼ればよかった。自分ができるようなことでも、同期の誰かに任せたりして「みんなの軽音」をつくっていければよかった。

ぼくは同期の奴らが大好きで、今でもぼくと仲良くしてくれていてすごくありがたいんだけど、部長としてはどう思っていたのだろうか。ひとりよがりだと思われていたかもしれないな。

 

今振り返って、こうやって気付けたのは良いことだと思うけどね。

だって「ひとりで全部やる」なんて非効率なこと、この先ぜったいやってられないからさ。任せられることは任せるし、周りにある使える脳みそは全部使おう。教訓と学びを得た。

 

 

ぼくの青春時代を思い出すと、誇りと後悔が同時にやってくる。それがいいことなのか悪いことなのか?ってことはきっと誰にも判別はできないだろうけど…でもまあ、最高に楽しかったよ。

 

いろんなこと思い出しちゃうなー。とってもエモいですよ。アオハルだね。

 

うむ…冗長になっちゃうからこの辺でおわらせよう。

 

おしまい。ではまた。

 

 

ひとりごと:ドンキホーテに行きたくない

 

とてつもないほど一般庶民である僕は、子供の頃からわりとドンキホーテに行く回数が多かった。

親に連れられて家電を買うとか生活用品を買うとか、最近は便利な位置にあるからってちょいちょい食料品を買ったり。

 

 

この前、僕の彼女がカラコンを試しに買ってみたいと言っていたのでドンキに行ったとき。

 

 

いつもの雰囲気、いつもの店内BGM、いつものドンキ。

 

少し暇だなあと思って周りの客を見渡したら、その「いつもの」の程度がいかに低いかということに気付いてしまった。

 

 

その場で服を脱いで、しかも素肌の上からTシャツを試着し始める若い男。汚らしい風貌のギャル。ぼさぼさの白髪混じりの金髪ロン毛店員。

 

 

 

もしかして、僕もこの中の一部なのか?

 

 

 

早急に脱しなければ。

僕はこの中の一部にはなりたくない。

 

 

ドラマや映画のある技術さんは、「貧乏人の家を表現するときは狭い空間にゴチャゴチャとモノを詰め込み、裕福な家を表現するときは広い空間に少しだけモノを置く」と話していたそうだ。

 

ゴチャゴチャした店内、清潔感のない建物。

ドンキホーテは、貧乏人の象徴だ…とまでは言わないけどさ。限りなくそれに近いよね。

 

 

ひとつ確かなのは、ドンキホーテになんか行かなくても暮らしていける人間にならなきゃいけないということだろう。

 

別にいつも成城石井みたいな高いスーパーで買い物したり洋服はブティックのものばかり、みたいなことは無駄だとは思う。

それに僕は特別な人間ではないかもしれないけど、せめて「普通」のレベルがそこよりは高く生きないとなあ。

 

 

まあ安いに越したことはないけどね。

 

めざせ一般庶民のワンランク上!

 

ちなみに今月リアルにお金がない!

 

 

 

うわああああああ…(断末魔)

 

 

 

ひとりごと:友人ほど無責任で最高な存在はいない

 

毎日を生きていて、ときどき親しい友人というものはやや不思議な存在だなと感じる時がある。

 

どんな部分が不思議なんだろう?

 

一言で表すと、「心は通じているけど無責任」という部分。

 

自分が悩みを抱えていたり辛いことがあったとき、家族や恋人には言いづらいなと思うことも多いだろう。けど、親しい友人になら言える。話を聞いて!と縋れる。

そんな心の開示や通じ合いは友人のすごく素敵なところだと常々思っているんだけど、同時に

 

結局他人だから無責任

 

ということが脳裏によぎってしまう。

僕は以前悩みを抱えていた時、それに絶望したことがある。

 

 

どんなに悩みや辛いことを共有できて心を通わせられたとしても、結局は自分じゃない。

同じ痛みは目の前の相手にはきっと分からないし、なにより背負ってくれるなんてこともない。

 

それはなぜか?

前述した通りだ。「自分」じゃないからだ。

 

そういった部分が、僕の中で友人という存在への絶望感へと繋がってしまった。もちろんそれで大切な友人を嫌悪したり敬遠したりすることはないけど、ね。

 

 

 

でも、いつの間にかそんなことは心から消えていったな。悩みやモヤモヤが以前よりかなり少なくなったからなのかな?

 

 

今はこう思ってる。

 

同じ「無責任」という括りであっても、友人なら気兼ねなく話せる。気兼ねなく相談できる。

それが逆の立場であっても、気兼ねなく話を聞いてやれるし、必要ならアドバイスだってできる。

 

友人は自分の人生を背負うわけじゃない。自分は友人の人生を背負うわけじゃない。なぜなら、他人だから。

でもそれが逆に心の枷を外してくれる。

無責任だからこそ、家族には言えないことを言える。無責任だからこそ、家族には言ってもらえない言葉を伝えてあげられる。

 

家族はたいていの場合本人のことを心配するから、安定とか現状維持な判断を望むことが多いと思う。

でも友人の言葉って、無責任なぶん前に進むためのトリガーにもなり得るんだよね、経験上。

 

最高だ。「無責任」って悪い意味で使われることが多いけど、考え方によっちゃ最高な言葉じゃないか。

 

 

だから僕は悩みを抱える友人に、せめて前に向かえるための言葉をかけてあげたい。

なぜなら、無責任な他人だから。親しい他人にこそ紡げる言葉があるし、伝えられる想いがあるから。

 

反対にもし僕が行き詰まった場合は、無責任でもいいから前に向かえるための言葉をかけてほしい。次へ進めるように。未来へ歩めるように。

 

 

これからもよろしく。

 

 

大切な友人たちへ。

 

では。

 

ひとりごと:モテ男の回想(やかましいわ)

 

今では冴えないただの爽やかなだけのメガネな僕ですが(これこそやかましいわ)、こんな僕にも一度「モテ期」というものがやってきたことがあります。

 

期間は小学5年の頃から3年間。1年に1回ずつ女の子に思いを寄せられてた…という。

 

いやべつにそんなことを自慢したいわけじゃなくて。その中でいくつか後悔してることがあって。

 

 

 

小学5年の頃、昼休みに女の子から呼び出されたことがあった。

ただの呼び出しならよかったんだけど、本人は緊張した顔だし、なんか周りの女子は意味ありげな微笑ましい表情を浮かべてるし、明らかに妙な雰囲気を感じて、これはただならぬことだ、告白されるやつだ…と察知。

 

でも、小学男子ってやっぱり子供なんだなぁと思うのは、そういう「女子と付き合う」みたいなのってすごく恥ずかしかったんだよね。

 

だから逃げちゃった。

 

昼休みのあいだずっと校舎を誰にも見つからないようウロウロして、最終的にはトイレに立てこもって。

 

だせえ!!!

 

ださいのもそうだけど、なによりその子にはすごく申し訳ないことをした。べつに好きな子じゃなかったけど、たとえ自分がダサい小学男子であっても、その子に対して真摯に向き合うべきだった。

という後悔。

 

 

 

もうひとつは中学1年のころ。2月半ば。

部活の途中、特になんとも思ってないクラスの女子に呼び出された。

 

もしや?と思ったら予想は的中。今日はバレンタインデーじゃないか。

 

本命チョコを渡された。。手作りの本命チョコを貰ったのは、高校3年から付き合ってる今の彼女(好き)を除くと後にも先にもこの一回だけ。味は覚えてないけど、「女子からチョコをもらってしまった」という異様な心臓の高鳴りは今でも覚えてる。だせぇな。

 

でもやっぱり好きな子じゃなかった。あの子の想いには応えなかった。ホワイトデーも何もしなかった。

しかし、ホワイトデーに全くお返しもしなかったのはかなり間違ったことをしたと思ってる。少しくらいお返しをしてあげればよかったし、なによりきちんと真摯にお断りをするべきだった。

 

正直どうするのが正解だったのかはわからないけどね。本命チョコをもらったら、ホワイトデーになにか返しちゃったら「OK」ということになっちゃわないかな?とか考えてしまったし。

 

 

あ、そういや、その子がショートカットにしてきたときがあったな。

あの時は特になんとも思ってなかったけど、よく考えたら俺「女の子の髪型なにが好き?」みたいな質問されたことあったわ。ショートって答えたけど、それで切ってきたのかな。女の子ってすごいね。

 

 

 

以上です。

 

後悔とは言ってみるけど、べつに損したわけじゃないし後悔とも思っちゃいない。ただもっとちゃんと男らしく向き合うべきだったよなぁと。

どうでもいいっちゃどうでもいいけどね。たかが小学校中学校の話だ。

 

 

心理学の「返報性の原理」についての記述を読んだら、なんとなくバレンタインデーの話を思い出したので書いてみた。

 

もらった恩はなにかのかたちで返そうね。

 

 

それだけです。

 

では。